リンゴスターについてのサイト
誕生からビートルズ解散に至るまで [編集]
リンゴ・スターことリチャード・スターキーは、1940年7月7日、リヴァプールに生まれた。3歳の時に両親は離婚し母子家庭という環境で育ち、父との思い出と呼ばれるものは何もないとリンゴは言う。 13歳の時、母エルシーがハリー・グレイブスと再婚。他のメンバー同様に不良少年だったといわれているが、病弱であったために長い期間に渡って入院生活を送ることもあったという。(小学校の時盲腸炎で入院。こじらせて腹膜炎を併発し、児童病院で手術をうけ、快復は早かったものの、隣のベッドの少年にバースデーカードを見せようとして、ベッドから転落。結局1年以上病院で過ごすこととなった。というエピソードがある。) 入退院を繰り返し、ほとんど学校にも行く事が出来なかった。そのためか一説にはビートルズ加入当時、リンゴは文字が読めなかったと言われている[誰?]。ビートルズの歴史上、"A Hard Day's Night"や"Eight Days A Week"、"Tomorrow Never Knows"など、リンゴの発言をタイトルにしたものは多々あるが、いずれも、通常の文法とは違っている。
元々はビートルズのドラマーではなく、『ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ』というバンドのドラマーを務めていて、ビートルズがレコードデビューする直前の1962年8月、当時ビートルズのドラマーだったピート・ベストと交代する形でグループに加入した。
家庭環境も相俟って、若い時分から職を転々としていたそうだが、プロのドラマーになってからは安定した収入を得られるようになったそうである。リンゴはビートルズ加入前にビートルズの面々とハンブルク巡業時に顔見知りになったそうだが、ジョージ・ハリスンによると「出逢ったころのリンゴは僕らよりも収入が多くて、僕らよりも早く車を買って乗り回していた」そうである。ちなみにリンゴはビートルズ加入前にピート・ベストの病欠時の代役として1962年に数回程度ながらビートルズのステージでドラムを叩いたことがある(「ビートルズ・アンソロジー」でのジョージ・ハリスンのインタビューより)。ジョージは「リンゴと共演する度に、これだ!このドラムだ!と常々感じていたよね」とも語っていた。
ステージネームの“リンゴ・スター”とは、ハリケーンズ時代にそれぞれがステージネームを考えた時につけられたもの。指輪が好きで、複数はめていたので、“Rings(リングス)”と呼ばれていたことが元で付けられた。
リンゴ曰く「Ringo Starkeyでいくつもりだったけれど、しっくりこなかったのでStarkeyを半分にしてrをもうひとつ付けた」
1965年2月にモーリン・コックスと結婚、同年9月13日に長男ザック(後にザ・フーやオアシスのサポート・ドラマーとして活躍)誕生。同年、MBE勲章を授与される。
ビートルズが1970年以前に公式発表した楽曲(一般に213曲とされる)のうち、コンポーザーとしてのスター(=リチャード・スターキー)の氏名がクレジットされているものは5曲(「ドント・パス・ミー・バイ」「オクトパス・ガーデン」「フライング」「ディグ・イット」「消えた恋」)あり、そのうち、彼が単独で作ったものは2曲(ドント・・・、オクトパス・・・)である。また、彼がリード・ヴォーカルを担当している曲は十数曲存在する(「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」「イエロー・サブマリン」「オクトパス・ガーデン」その他)。また、「僕は皆と友達」「僕の曲はアルバムに最低でも1曲入っていればOK」「人気投票では、全然3人に敵わないけど、2番目に好きなメンバーを選ぶ投票だったら、1番になれるよ」などといった発言から窺えるようにビートルズのメンバーの中で最も穏やか、かつ人格者であったことでも知られ、彼の存在なしではグループの解散がもっと早まっていただろうと言われている[誰?]。ジョン・レノンはビートルズ解散後ポールやジョージに対して辛辣な発言を投げかけたことがあったが、リンゴにだけは一度も暴言を吐かなかった(ジョンは生前のインタビューにおいて「リンゴはビートルズに入ってなくても必ずスターになってたと思うよ」と発言し、リンゴの人柄を称えていた)。
ただし、リンゴは一度非公式にビートルズを脱退している。当事者サイドの見解によると、1968年のアルバム「ザ・ビートルズ」(ホワイト・アルバム)をレコーディング中のこと、自分のスケジュールを常にほかの3人に合わせ、自由な時間もほとんどない状況で、そのうえ、ポール・マッカートニーがリンゴのドラミングにいちいち注文をつけ(1986年にポールがインタビューで発言したところによると「バック・イン・ザ・USSR」のレコーディング中での出来事だとか)、挙句の果てに彼のドラム・プレイを非難したため、さすがに温厚なリンゴも、この状況に嫌気がさし、ビートルズ脱退を決意。「(ビートルズを)やめてやる!!」と言い放ち、スタジオを後にしたというもの。メンバーが慰留してビートルズに復帰したが、この一件が、ビートルズのメンバー間の不和を、一段と推し進める一因となった、という意見がある。
ビートルズ解散後のキャリア [編集]
1970年代前半 [編集]
ポール・マッカートニーがグループ脱退を表明する直前の1970年3月に、スタンダード・ナンバーを集めた初の単独作品『センチメンタル・ジャーニー』を発売した。これを機に、スターはソロ・ミュージシャンとしての活動を始動する。同年12月には2枚目のアルバム『カントリー・アルバム』をリリース。シングルでは、共に自作曲の「明日への願い」[1]や「バック・オフ・ブーガルー」[2]などのヒット曲を生みだした。
更に、1973年にはジョージ・ハリスンの作曲による「想い出のフォトグラフ」が、翌74年には「ユア・シックスティーン」が、それぞれ全米チャートでNO.1を記録。1970年代前半のスターは、元ビートルズのメンバーとして最もコンスタントにヒット・シングルを連発した。
この時期、アルバムでも成功を収め、1973年発表の『リンゴ』は、全米2位を記録した。『リンゴ』には、ビートルズ解散以降初めて、4人のメンバーが1枚のレコードの中で名を連ねた(各メンバーが楽曲提供と演奏で参加)。1975年に発表された『グッドナイト・ウィーン』には、ジョン・レノンやエルトン・ジョン、ニルソンなど豪華な作家陣が楽曲を提供、レコーディングにも参加し、全米8位を記録した。
ハリスンが企画して行われた1971年の『バングラデシュ難民救済コンサート』への出演も含め、1970年代前半のスターは、あらゆる活動において大成功を収めた。
1970年代後半〜1980年代 [編集]
しかし、1976年に古巣EMI/アップルを離れ、アトランティック・レコードに移籍した頃から、好調だったソロ活動に翳りが見え始める。当時スターは、自らのレーベル、リング・オー・レコードを設立。作品のプロデューサーにアリフ・マーディン、作曲家にヴィンセント・ポンシア・ジュニアなどを迎え、極めてファンキーなサウンド作りに徹していた。しかし、そういった路線を、より具体的に打ち出した1977年のアルバム『ウイングズ〜リンゴW』は、ビルボードのアルバムチャートで100位圏外という結果に終わってしまう。この作品の売上不振を原因に、彼はアトランティックから契約を打ち切られている。プライベートでも腸の病気を患って、一時危篤状態に陥ったり、ロサンゼルスにある自宅が火事で全焼したり、と、1970年代後半はスターにとって多難な時期となった。そんな中、彼は自らが主演を務める映画『おかしなおかしな石器人』の中で共演した女優のバーバラ・バックと恋に落ち、1981年に再婚(前の妻のモーリーン・スターキーとは1976年に離婚している)。だが、その前年の1980年暮れ、ニューヨークで、レノンが精神疾患者に殺害されるという衝撃的な事件も起こった。この事件が起こった直後、夫妻は急遽ニューヨークのオノ・ヨーコのもとに向かい、彼の死を悼んだという。その後1984年より、イギリスでテレビ放送が開始されたテレビアニメーション「きかんしゃトーマス」のナレーターに抜擢され、以後2シリーズに渡ってナレーションを務めた。更に、米国で90年代に放映されていた「きかんしゃトーマス」の親番組『Shining Time Station』では、駅長の役柄で出演した。
本業では、1980年代に2枚のオリジナルアルバムをリリースするが、シングル・カットされて全米トップ40ヒットとなった「ラック・マイ・ブレイン」[3]以外は全て失敗に終わっている。ジョー・ウォルシュをプロデューサーに迎えて制作された1983年発表の『オールド・ウェイブ』に至っては、本国やアメリカではリリースさえされなかった。1980年代の彼は私生活でもとても退廃的な体たらくだったようで、マッカートニーやハリスンのアルバムや、チャリティ・コンサートなどでドラムを叩く活動が中心だった。1980年代後半はアルコール依存症にも悩まされていた。
近年 [編集]
そんな彼も、1989年にアルコール依存症患者更生施設での治療を経てカムバック。ブルース・スプリングスティーンのバックバンドであるEストリート・バンドや、イーグルスの元メンバーなどを集めた、リンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンドというスーパーバンドを結成し、ビートルズ解散後初の本格的なワールド・ツアーに出る。その年の秋には来日公演も実現した。ビートルズのメンバーがライブを目的として日本に来たのは実に23年ぶりのことであった(翌年にはマッカートニー、その更に次の年にはハリスンも来日公演を行っている。元ビートルズが3年連続で来日した事は、日本のロック・ファンを大いに沸き立たせた)。1992年に久々のアルバム『タイム・テイクス・タイム』を発表してからは、その活動はますます精力的なものとなり、1995年にはオールスター・バンドを従えて再び来日した。この際の武道館公演は、『ヴォリューム・ワン』というタイトルのCDとなって、アメリカのブロックバスターという会社から通販限定で発売されている。翌1996年には、日本の宝酒造「タカラCANチューハイ・すりおろしりんご」のCMに出演し、自分の名前を引掛けた「リンゴ、擦ったー?」の台詞と共に大きな話題を呼んだ。彼はコマーシャルに出演した唯一のビートルズのメンバーであり、このチューハイのCM以前にも、日本の洋服メーカーのレナウン、シュウェップス、アメリカのウォッカやピザのCM等に出演している。1998年には、キャロル・キングやエアロスミスなどを手がけたことで知られるマーク・ハドソンを、作曲パートナーと共同プロデューサーに迎えて制作されたオリジナル・アルバム『ヴァーティカル・マン〜リンゴズ・リターン』をリリース。マッカートニー、ハリスン、ブライアン・ウィルソン、アラニス・モリセットなど、相変わらずゴージャスなゲスト陣とともにレコーディングされたこのアルバムは、彼にとって実に22年ぶりとなる全米アルバムチャートのトップ100入りを果たした[4]。その後はハドソンをパートナーとして、精力的に創作活動に臨み、数枚のアルバムを発表している。数年間隔でオール・スター・バンドのツアーもこなし、マイペースながら着実な活動を続けている。2008年10 月、自身の公式サイト上で、ファンレターやサインを10月20日以降は拒否すると発表。元来サイン嫌いなリンゴは、「生けるビートルズ」として執拗に送られるサイン要望の郵便や、オークションで度々出品される自分のサインに嫌気がさしたとされる。後日、この声明は「e-Bayで売りに出されている途方もない量のアイテム、およびサインを求めて繰り返しカードや物品を送りつけてくる人へのリアクション」であるとコメントしている[5](欧米では、ファンが郵送した色紙にアーティストがサインをして返送する習慣がある)。
映画俳優として [編集]
彼は、多くの映画に性格俳優として出演するなど、音楽以外の面でも才能を発揮している。ドキュメンタリー映画『レット・イット・ビー』を除くすべてのビートルズの映画作品(『ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!』、『ヘルプ』、TV映画『マジカル・ミステリー・ツアー』、アニメ『イエロー・サブマリン』)において、リンゴは主役またはストーリーの中心的な存在となっている。ビートルズのフロントマンであるレノンやマッカートニーも、これらの映画作品の中ではリンゴを引き立てる脇役に徹している。他のメンバーと違って、コンポーザーとしての才能に長けていなかったこともあって、ビートルズ後期になると、彼はより映画の仕事に重点を置くようになり、ピーター・セラーズとの共演作『マジック・クリスチャン』や、『キャンディ』などの作品を残した。
映画『おかしなおかしな石器人』での共演をキッカケに出会って結婚した、現在の妻バーバラ・バックも、かつては映画『007 私を愛したスパイ』などに出演していた女優である。1980年代には、ビートルズの他の二人の元メンバーとそれぞれスクリーン上で共演した。1982年には妻と共に、ゴドレイ&クレームが監督を務めた短編映画『ザ・クーラー』に出演し、映画を制作したマッカートニー夫妻と共演した。マッカートニーによる1984年公開の映画『ヤァ!ブロード・ストリート』でも、彼はサントラへの参加のみならず、俳優として演技していた。ハリスンとは1985年公開の映画『レゲエdeゲリラ』で競演。エリック・クラプトンをはじめとする豪華なミュージシャンたちと、そろって演奏するシーンに出演していた。本業の音楽に再び精を出すようになった1980年代後半以降、彼が映画に出演する機会は減りつつある。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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